過去の写真とずっと付き合う

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そろそろバライタ4ツ切の過去作品のプリントが終わりに近づいて来たので、富士フォトサロンにでも持ち込もうかと思い、眺めていたけど、やっぱり辞めにした。まだ、これだと完璧ではないのでとても人様にお見せできるクオリティではないのに気が付いた。

 具体的にどこがダメかいうと、シャドー部の階調に不満があるものが何枚かあった。5年くらい前の、かなりヘタクソだった頃のネガもあるので、ネガ上で素抜けになってしまっているものもある。そういうのは、救済出来ないので、それはそれでいい。なぜなら、それ以上の努力は出来ないからである。しかし、ネガ上に何らかの情報が残っているものについては、再プリントして、何とかなるようにしてみたい。努力できる余地がある限りは、精一杯やってみたいのだ。黒っぽい服の場合、ベタッと黒く潰れてしまっているのは、あまり宜しくない。ちゃんと服のシワなんかが、黒く潰れるギリギリのところで表現されている必要がある。そういったギリギリのところだと、ドライダウンで台無しになってしまう場合があるので辛い。
 他にも、今になってプリントを見直すと、もうちょっと違う方向性で(違うプリント方法で)の可能性を探ってみたいと思うプリントもあるし、微妙にフラットニングが甘かったり、プリントにホコリが付着しているので取り除くために再水洗する必要があったりと、いろいろと手を加えなくてはならない。

 結局のところ、プリントって、いったいなんなんだって思う。

 撮影して、すぐにプリントして、はい出来上がりっていうものなんて、たかが知れてるのではないだろうか?今までずっと数年間、そこそこいいと思っていた写真が、今見るとあまり良くなくって、ボツにしていた写真が、急に輝きを増してきたりする。

 そして、技術の向上はとても大切だ。5年前、プリントテクニックが稚拙だったばかりに、作品化を諦めなければならなかったネガがあるけけど、今なら何とかなりそうなものがある。それらは、例えるなら、現代医療で治療の見込みのない患者が冷凍冬眠し、治療法が発見された未来で、治療されるのに似ている。(意味のない例えだけど)

 以前、図書館で借りたアンセルアダムズの写真集で、撮影直後プリントと、同じネガを20年後くらいにプリントした物の両方が掲載されている写真集があった。写真集は、所詮印刷なので、細かい部分までは見れないのは重々承知だけど、明らかに、後年になってプリントされたものの方が良いのだ。

 しかし、そうなると写真活動は、途方もないものになっていく。過去作品を常に見つめ、機会があれば再プリントする。しかし、過去ばかり見つめているわけにもいかないので、新作も作っていかなくてはならない。しかし、新作はやがて旧作になる。いったい、どこまでやればいいのか。終わりなんて、永遠にない。僕がいなくなれば、あるいは作品を作る事をしなくなれば、それが終わりなんだろうけど、それと作品が完成されたということは当然違う。

 でも、人や街と同じで、完成なんてしない方がいいのかもしれない。より高次なものを目指して、変化し続けた方がいいのだろう。そんなことを思いながら、今夜も過去の作品を再プリントしよう。永遠に未完成な作品を。

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このページは、うたろうが2006年10月17日 21:36に書いたブログ記事です。

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