テレビ番組の「美の巨人たち」で、日本画家の加山又造の、天龍寺の雲竜図の特集が放映されていた。それにしても、加山又造は色鮮やかな版画から水墨画まで、画風が幅広いのに驚かされる。雲竜図は水墨画である。水墨画の世界では、「墨は五彩を表わす」と言うが、これは勿論、観念的な意味合いでのことだ。茶色がかった温黒調の墨とか藍が混ざった冷黒調の墨といった目視で判断出来る色の事ではない。墨で描かれた空に青を感じ、森に緑を感じるといったことだと思う。これは、水墨画に限ったことではない。モノトーンで表現される全てのものに言えることだ。
しかし、「五彩を表わす」と言っても、それは普遍的な共通認識があるものに限られる。前述した、空や森、雪といったような、経験により記憶したものしか鑑賞者は色を感じ取る事は出来ない。
モノクロ写真では、セーターを着ている人物のセーターの色までは表現出来ないのだ。その場面において、セーターの色が重要な意味を持つのであれば、もはや表現手法の選択からして間違っていると言える。最初からカラーで撮ればいい。
しかし、そういう場合、その物体の色は大して意味はなさないのだ。意味はなさないので、セーターの色には気にも留めない。つまり観念的な段階で抽象化されているとも言える。
水墨画も白黒写真も、その表現方法が発生した段階では、技術的にカラー表現が出来なかったため、モノトーンで表現するほかなかった。考えてみれば、かなり強い制約である。その制約下において諧調表現を模索してきたのだ。技術的にカラーで表現することが可能になった時代においても、その表現方法は独特なものとして存在し続けている。たぶん、これからもずっと。
しかし、「五彩を表わす」と言っても、それは普遍的な共通認識があるものに限られる。前述した、空や森、雪といったような、経験により記憶したものしか鑑賞者は色を感じ取る事は出来ない。
モノクロ写真では、セーターを着ている人物のセーターの色までは表現出来ないのだ。その場面において、セーターの色が重要な意味を持つのであれば、もはや表現手法の選択からして間違っていると言える。最初からカラーで撮ればいい。
しかし、そういう場合、その物体の色は大して意味はなさないのだ。意味はなさないので、セーターの色には気にも留めない。つまり観念的な段階で抽象化されているとも言える。
水墨画も白黒写真も、その表現方法が発生した段階では、技術的にカラー表現が出来なかったため、モノトーンで表現するほかなかった。考えてみれば、かなり強い制約である。その制約下において諧調表現を模索してきたのだ。技術的にカラーで表現することが可能になった時代においても、その表現方法は独特なものとして存在し続けている。たぶん、これからもずっと。
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